青春シンコペーションsfz


第1章 あ、開かない……!(4)


「ところで、井倉、9月の音楽祭で弾く曲は決めたのか?」
基礎練習をしていた井倉に黒木が訊いた。
「え?」
彼が唖然としているので黒木は焦って言った。
「毎年コンクールで優勝した者を招待して行われる恒例の行事のことだ」
「すみません。僕、聞いていなくて……」
「聞いてない? 事務局から通知が来ていないのか?」
「僕は見ていませんけど……」
「妙だな。例年なら大会が終わるとすぐに来るんだが……」

黒木は書類を入れたチェストの引き出しを調べ始めた。が、そこにも見当たらないので、美樹やハンスにも尋ねてみた。
「いいえ。井倉君宛の郵便物は見ませんでしたけど……」
二人は首を傾げる。
「念のため、問い合わせてみよう」
今年の事務局は他でもない薬島音大だった。一連の行動を面白くないと思っているであろう彼らが何か仕掛けて来るのではないかと黒木は懸念していた。
「いや、まさかとは思うが……」
コンクールの時にさえ、理を曲げて勝手な事をするような連中だ。油断は出来ないと黒木は考えていた。

そして、電話をしてみると案の定、通知はとっくに出している筈だという返事が返って来た。
「しかし、現に届いていないのですよ」
――郵便の事故かもしれませんね。では、FAXで構いませんので5時までに曲目と作曲者名、演奏時間と演奏者名を送ってください

黒木は承知したと言って電話を切った。

「良かった。今日が締め切りだったそうだ」
黒木が井倉の元に来て言った。
「今日ですか?」
「出演者が多いから弾くのは1曲だが、コンクール優勝者として注目される。マスコミや評論家達も大勢来るからな。顔を売るチャンスにもある。将来へ繋げるためにもいい刺激になるだろう」
「はい」
井倉はそう返事をしたものの、落ち着かなかった。
「あの、1曲って、決勝で弾いたどちらかの曲ってことですか?」
「いや、コンクールの時とは違った曲を弾くのが慣わしだ。弾ける曲は?」
井倉は迷った。コンクールで弾いたもの以上に弾ける曲など思いつかなかったからだ。

「ため息にしましょう」
ハンスが来て言った。
「最近、良く練習しているし、あれなら舞台映えしますから……」
「それはいい。井倉、ちょっと弾いてみろ。タイムを測ってやる」
「あ、はい」
勇んで返事をした。が、自信はなかった。

――リストのため息……わたしも好きよ。だから、もっとましな音で……

(彩香さんが好きな曲……。上手く弾かなきゃ……。でも、出来るんだろうか? 僕に……)
楽譜を見つめているうちに二人で過ごした夜のことを思い出し、心臓が高鳴った。脇では黒木がストップウォッチを構えている。
(弾かなきゃ……)
井倉が曲を弾き始める。

――わたしも好きよ

胸の奥で波打つ鼓動が一つトクンと跳ねた。
(あ!)
音が濁った。黒木がこちらを睨んでいる。交差した手が一瞬遅れた。焦れば焦るほど想いとは裏腹に指が動かなくなって行く。
(弾かなきゃ……)
強引にラストまで弾いた。が、彼はそのまま固まって動けなかった。黒木の顔を見るのが怖かった。
「別の曲に……」
黒木がそう言い掛けた時、ハンスが言った。

「これで行きましょう」
「しかし……」
黒木が渋い顔をする。
「いいえ。乱れたのは余計な事を考えたからでしょう。まだ1ヶ月以上あるのだし、何とかなります」
「ハンス先生……」
井倉はうれしかった。どうしてもこの曲が弾きたかった。彩香のためにも、自分自身のためにも……。
「まあ、ハンス先生がおっしゃるのなら、いいでしょう」
黒木が頷く。それから、井倉の方に顔を向けて言った。

「これからはこの曲を猛特訓だ。いいな?」
「はい」
(僕はどうしてもこの曲を弾きたい)
胸の奥が熱くなる。
(あと1ヶ月で、必ず弾けるようにする)
それから何度か弾いて、タイムを測った。黒木は必要事項を書き込むと事務局に送信した。そして、確かに受け付けられた事を確認する事も忘れなかった。


その日は、3時から子ども達のレッスンがあったので、井倉はまた地下室で一人、練習をしていた。
(彩香ちゃんが好きだと言ったこの曲、どうしても上手くなりたい)
何度も楽譜に目を通し、部分練習を繰り返す。
(そういえば、子どもの頃、この曲を弾きたくてピースの楽譜を買ったけど、3段の楽譜なんてはじめて見たから、それだけで圧倒されて、譜読みさえ出来なかった。それを、今はまだぎこちないけど、こうして自分の手で弾くことが出来る。それだけでもうれしい。でも、それで満足なんかしてられない。もっと上手くならなきゃ……)
高揚して来る胸の内を抑えようもなく、その情熱が迸る。

「クロスした手が硬いです」
背後から声がした。ハンスだ。井倉は振り向かずに続けた。
「もっとしなやかに優雅に動かして……。そして、もっと軽く飛ばないと高い音が遅れます」
「はい」
井倉は手を止めずに返事する。
「もっと速く! 左、乱れました。もっとレガートに……。そして、深い森に掛かる霧のようにそっと……。森の奥に住んでいるものを想像して……」
(森の奥に住んでいるもの……。何だろう?)
井倉は弾きながら考えた。
(森に眠る姫君? 白雪姫の7人の小人? それとも、森の妖精とか……)

曲が終わり、静寂が訪れた。その時、誰かの手が井倉の両目を塞いだ。それはハンスの手に違いなかった。いつそんな至近に近づいたのか、まるで気づかなかった。しかし、驚きもしなかった。ただ、されるがままにじっとしていた。
「霧の向こうには怪物が住んでいるのです」
耳元でハンスが囁く。
「それは、君に襲い掛かる闇そのものと言ってもいい。どうです? 恐ろしいですか?」
「いえ……」
そう言い掛けて、井倉は口を噤んだ。冷たい手で足首を掴まれた感じがしてぞっとしたからだ。
(誰……?)
ハンスの両手は今もしっかりと井倉の目を塞いでいる。

「僕は怖かったです」
低い声でハンスが言った。
「昔、地下室に閉じ込められていた時には、僕は怖くて震えてたです」
「え?」
「僕は子どもの頃、地下に幽閉されていたんです」
「そんな……」
何と言えばいいのか言葉が見つからない。が、ハンスは淡々と話し始めた。
「そこはワイン倉庫のような場所でした。たった一つ開いていた高い窓からは月が覗いていました。やさしく、美しく、そして巨大な怪物の目のように僕を睨んでいました。そこから差し込む月光は狂っていた。そして、僕はワインを飲み干して月と同じように狂っていた」
ハンスの声は遠く地の底から響いて来るようで、井倉は思わず握った手を固くした。

「誰も助けに来なかった。霧の向こうにはいつも闇の怪物が眠っていた。目を覚まさせてはいけない怪物が……。だから僕は子守歌を歌ったんです。恐ろしい怪物を目覚めさせないように……。でも、それはきれいなだけでは駄目なんです」
井倉は黙って彼の言葉を聞いた。
「美しいだけでは届かない。霧の向こうには怪物が眠っているのかもしれないと信じなければ……」
「霧の向こうには怪物が眠っている……」
その意味はまだ漠然としていた。しかし、ハンスが言わんとしていることは何となくわかるような気がした。
「そして、その怪物に囚われているのは誰なのでしょう。君自身かもしれないし、大切な君の姫君かもしれません」
そう言うとハンスはようやく井倉の目を塞いでいた手を放した。

「倉庫の扉にはドアストッパーを取り付けました。それに懐中電気もセットして置いたです。これで停電になっても大丈夫。もうかくれんぼしても怖くありません」
「先生……」
ハンスが笑って頷いたので、井倉も微笑した。それから、師を見つめて告白した。
「本当は僕も怖かったんです。でも、彩香ちゃんを守らなくちゃって……。僕がしっかりしなくてはって……。結局何も出来ませんでしたけど……」
「君は立派でしたよ」
ハンスが笑う。
「そんなこと……」
井倉は慌てて否定した。が、その顔はほんのり赤くなっている。
「そろそろ上に行きましょうか。夕食の時間です」
ハンスが言った。井倉は急いで鍵盤を拭き、蓋を閉めると師の後に付いて行った。

階段を上って行くハンスの背中を見つめながら、井倉は思った。
(幽閉されていたって……。いったいどういうことなんだろう?)
井倉にとってハンスという存在は謎に満ちていた。ピアニストとして一流の腕を持ちながら、一切表には出ず、今は兄と共にテロリストを取り締まる国際警察の仕事をしている。確かに腕の具合が良くないことも一員だろうが、井倉にはどうしても納得が行かなかった。
(世界の安全を守ることも大事だろうけど、大勢の人達を幸せにするために、彼の音楽は必要だ。なのに何故、先生は……)
リビングへ通じる扉からは微かに光が漏れている。

「諦めてる訳じゃないんですよ」
ふと足を止めてハンスが言った。
「僕は機会を待っているんです」
それだけ言うと彼は扉を開けてリビングに出て行った。そこから差し込んで来る光は黄金色に光って見えた。それはホールの舞台へと続く導きのように思えた。井倉も急いで階段を上るとその扉を抜けた。今は戸口になっているが、脇にある本棚をスライドして隠すことも出来る。

「OH! 愛しのハンス!」
フリードリッヒ・バウメンがハンスをオーバーに抱き締めた。
「何だ、おまえ、もう来てたのか?」
ハンスは何とか阻止しようと抵抗していた。
「会いたかったよ、ハンス。私がいなくて寂しかったかい? だが、安心したまえ。私も当分は日本に住むことにしたよ。マンションも借りられたし、これでいつでも君の所に顔を出すことが出来る。どうだ? 万全だろう」
「何が万全だ。おまえはおまえの道を行ってくれ」
ようやく放してもらえたハンスは手で服の塵を払う仕草をした。
「冷たいなあ。せっかく君にお土産持って来てやったのに……」
「そうだ。電話の時も言ってたな。なら、早く寄こせよ」
ハンスが手を出す。

「はは。せっかちだなあ。それはあとのお楽しみさ。それより、井倉君、調子はどうだい? ピアノの練習は進んだんだろうね」
「あ、はい。でも、今は9月の音楽祭の曲を練習していて……」
しどろもどろに答える井倉に、フリードリッヒは軽く肩を叩いて言った。
「まあ、そうだろうね。私も初めからさほど期待はしていない。君は自分の領分の課題をクリア出来るように頑張りたまえ」
「はい。そうします」
フリードリッヒの言葉を聞いて、井倉は落胆した。
(わかってたさ。ヘル バウメンが本気で僕に期待している訳じゃないって……。でも、こんなにはっきり言われるなんて……)
薔薇の香りが漂っていた。
(ショックだって? 何て驕った考えをしているんだろう、僕は……。コンクールで優勝をしたからって、助長しているんだろうか? だとしたら、何て愚かな……。自分で自分がいやになる)
フリードリッヒはもう、そこから離れ、美樹や黒木と楽しそうに話をしていた。きらきらした照明がみんなを照らしていた。井倉は自分だけが取り残されているような気がして俯いた。

「ニャーン」
ピッツァが来て足元に絡んだ。白くふわふわとした毛が触れて少しくすぐったい気がする。白い猫は彼を見上げて何度も鳴いた。
「ピッツァ、慰めてくれてるのかい?」
頭を撫でようと手を伸ばすと猫はそこから離れ、そそくさと皆がいる方へ行ってしまった。
「何をしているの?」
背後から声がした。2階から降りて来た彩香だった。
「あ、いえ、何でもありません」
「バウメン先生がドイツからお帰りになられたようね。もうご挨拶は済んだの?」
「はい」
「じゃあ、わたしもご挨拶して来るわ」
彩香が通り過ぎる。一瞬、甘いコロンが香る。彼女がお辞儀をするとフリードリッヒはうれしそうに笑って握手した。
(やっぱり彩香ちゃんはみんなの華なんだな。あの光の中に入ってもあんなに煌めいてる)

「あら、井倉君、ズボンの裾に猫の毛が付いてるわよ。ピッツァがこすり付けたのね」
キッチンへ向かっていた美樹が通りすがりに言った。
「待ってて。今、ブラシで取ってあげる」
「いえ、大丈夫です。自分でやれますから……」
「ごめんなさいね。このところずっとわたしの仕事が忙しくて、猫達のグルーミングがおろそかになってて……。ハンスは猫達と遊んでばかりでちゃんとやってくれないし……」
美樹が軽く肩を窄めて彼を見る。
「いえ、ほんとに大丈夫ですから……。僕がグルーミングのお手伝いも出来るといいんですけど……」
「駄目よ。あなたはピアノの練習しなくちゃ。今はそれが何よりも大事なんですもの。それに猫達にじゃれつかれて大事な手に傷でも付いたら大変」
「そんな柔じゃないですよ。ああ、でも、指の先だと困るかな」
井倉が少し考えるように呟く。

「そうでしょう? だから、あなたはリストの曲頑張ってね。あの曲、わたしも好きなんだ」
「そうなんですか。時が経ってもみんなから愛される曲を作ったリストも喜んでいるでしょうね」
「きっとね」
二人は何となくハンスの方に視線を向けた。彼が作った曲も、そんな風に後世に残り、みんなから愛されるかもしれない。そんな才能を秘めていながら、発表することを拒むハンスの気持ちが彼らにはどうしても納得が行かなかった。


その後、テーブルを囲み、美樹が用意した紅茶を飲みながら皆で談笑した。
「ショコラーデを買って来たんだ」
フリードリッヒが箱を開ける。
「何だ。おまえのお土産ってこれなのか?」
ハンスが不満そうに呟く。
「はは。君だってショコラーデは好きだろう?」
「まあね。おまえがどうしてもと言うのならもらってもいいけど……」
ハンスは憮然とした口調で言った。が、その口元は明らかに笑っている。
「そうそう。人間、素直が一番さ」
そう言ってフリードリッヒが脇にいたハンスの頭を撫でる。すると彼は手にした菓子を置いて立ち上がる。

「井倉君、席を替わってくれませんか?」
いきなり言われて驚いたが、師匠に言われては逆らえない。井倉も慌てて立ち上がる。
「何も席を代える必要なんかないだろう? そんなことをしたら美樹さんと離れてしまうぞ。君はそれでもいいのかい?」
美樹はハンスの右隣。そして、左側にフリードリッヒが座っていた。そして、向かいに黒木、彩香、そして井倉の順に掛けていたのだ。ハンスは黙って腰を下ろした。美樹は、そんな彼を見て微笑する。

「ところで、ドイツではどうだったのかね? 何か変わったことは?」
黒木が訊いた。
「コンサートは盛況でしたよ。まあ、いつものことですが……。ただ、今はネオクラシックのブームが来ていますね」
「ネオクラシックというと、デジタル楽器で演奏するあれかね? シンセサイザーとかを使う……」
黒木が訊いた。
「ええ。でも、そればかりではなく、様々な素材を駆使して音を重ね合わせるのです。もはやクラシックとは言えないと私は思うのですが、どのジャンルとも違う独特なメロディーを演奏する者達がホールを賑わせています」
フリードリッヒが真剣な表情で言う。

「日本でもコンサートチケットを売るのは大変だからね。それが時代の流れなのかもしれんな」
黒木が嘆息する。
「でも、それがクラシックの流れを継ぐものならば、裾野が広がって、再びクラシック音楽に脚光が当たる良いチャンスになるかもしれない」
美樹が言った。
「そうですね。テレビでも、クラシックの曲の速弾きとか編曲して競うような番組が人気のようですし……」
慎重な素振りで彩香が口を添える。
「え? 彩香さんもそういう番組見てるんですか?」
井倉が訊いた。
「あら、わたしだってテレビくらい見るわよ」
「あ、すみません。別にそういう意味じゃ……」
井倉が慌てて言い訳する。

「でも、僕もちょっと意外な気がしたです」
お菓子の袋を開けながら、ハンスが言った。
「実はわたしも詳しくは知りませんの。ただ、父に頼まれまして、今度その番組のゲストにぜひと出演を依頼されたものですから……」
「え? 彩香さんが速弾きとかするんですか?」
井倉が訊いた。
「まさか。わたしはただコメントするだけよ」
彩香が呆れたように言う。
「わたしだって、別に出たい訳じゃないのよ。今回はたまたま父の知り合いが番組担当をされているとかでどうしてもと頼まれただけなの」
そう言うと彼女は優雅な手つきでカップを持つと一口だけ紅茶を飲んだ。

「速弾きなんて邪道ですよ」
フリードリッヒが言った。
「へえ。機械みたいに正確に弾くおまえでも、速く弾いたらぼろが出るって訳か」
ハンスがくすくすと笑って言う。
「正確に弾くというのは正しい指摘だ。私を高く評価してくれたことを感謝する。私の演奏は、どんなに速く弾こうと乱れることはない。だが、どの曲にも、最も美しく際立つ速度というものがある。必要以上に速く弾くのはどうかと思うね」
「何言ってるのさ。そんなの単なる遊びじゃないか。ムキになるなんてどうかしてる。要は自信がないんだろ?」
ハンスが言い返す。

「私を侮辱する気か?」
フリードリッヒが睨む。
「本当のことだろ?」
ハンスは澄まして紅茶を飲んで言った。二人のカップは空になり、美樹がお代わりをそそぐかどうか迷っていた。二人のピアニストはどちらも自分の意見を取り下げるつもりはないらしく、じっと睨み合っている。二人の間に一触即発の空気が漂う。井倉の鼓動は激しくなった。
(でも、この二人の対決ならちょっと見てみたい……なんて思うのは、不謹慎かな?)
井倉は視線を逸らした。彩香はいつも通りの表情をしていたが、美樹は少し困ったようにハンスを見ている。黒木は興味津々といった感じに身を乗り出していた。

「そういえば、その番組が始まる時間ですわ。ご覧になります?」
彩香が言った。
「そうね。彩香さんが出るなら参考になるんじゃない?」
美樹が言ってテレビを付けた。クレジットが流れ、すぐに番組が始まった。賑やかな司会者とゲスト達のお喋りの後、ようやくメインの音楽対決が始まった。チャレンジャーは楽器の心得があるタレントや音大生、そして、現在プロとして活躍している者達も混ざっている。審査員もプロの音楽家や評論家もいた。彼らが点数を付け、勝ち抜き方式でチャンピオンを決めるのだ。

「へえ。結構面白いじゃないか」
ハンスが言った。
「まあ、遊びとしてはね。だが、やはりこれだけの速さになるとミスタッチが目立つな。少々耳障りだ」
フリードリッヒが眉を寄せる。
「あーあ。いやだね。遊び心のわからない奴は……」
ハンスが非難するように隣を見る。

「何だ、あれは? 生方響(うぶかた ひびき)? クラシック界のスーパースターだって? ロックスターじゃあるまいし、髪をあんなに染め分けて……」
黒木が顔を顰める。画面の中では、その響のことがVTRを交えて紹介されていた。
アメリカ育ちの彼は15才でジュリアード音楽院に奨学生として入学。将来を嘱望されたが、2年で退学。その後は自由な形式の音楽を目指し、デジタル楽器を駆使した新たなジャンルを切り開こうと活動している22才の天才。今、世界でも人気急上昇のアーティストなのだという。
(すごいな。僕とあまり変わらない年なのに……)
井倉は画面の中の彼を見て思った。
響の周囲には常に独特なオーラが漂っていた。そして、ビジュアルも美しい。彼の一挙一動に会場の女性達が歓声を上げ、その演奏にため息を漏らす。

「面白いな、あれ」
画面を見てハンスが言った。響が扱う機材には様々な楽器と効果音が内蔵されている。そこに並んだキーボードとボタンを操作して演奏する彼。その動きはすべて計算され、無駄がなかった。そして、クラシックをベースにしながらも、斬新な旋律に様々な効果音を加え、個性的な空間を演出する。

「あの髪、いいね。フリードリッヒ、おまえも今度髪の毛染め分けてみたら?」
ハンスが言った。
「私のファンは今の私を最も好いてくれている。これ以上、付け足す必要はない」
「堅物のおまえには堅物のファンが付くって訳か」
「ファンは大事だ。私の魅力を一番理解してくれている。聴衆がいなければ、我々ピアニストの存在価値はない」
「聴衆ね……」
ハンスが呟く。

画面の中ではアレンジ対決となり、響がベテランピアニストの佐々木と競って勝利した。佐々木の編曲も良かったが、響の躍動感溢れる旋律に会場は酔っていた。
「何かすごいわね、あの響って子。素人の耳でも明らかに彼の方が勝ってるって気がしたもの」
美樹が言った。
「そうですね。でも、僕ならもっと上手く弾けますよ」
ハンスが美樹の肩を抱いて言う。
「それはぜひ、お聴かせ願いたいものです」
黒木が哀願するように言う。
「そうだ。君こそが真の天才なのだ。こんな所に埋もれていないで、私と一緒にコンサートツアーに行こうじゃないか!」
フリードリッヒが情熱的にハンスの肩を掴む。彼は嫌そうにそれを振り解くと井倉の方を見た。

「君、あの彼と同じくらいの年でしたよね? アレンジもやってみますか?」
「え? いえ、僕にはとてもそんなこと……」
井倉は慌てて尻込みした。
「でも、即興とかは弾くでしょう? 今度、僕の教室でもああいうのやってみたいです。速弾きも時には良い訓練になるし、曲のアレンジは表現に役立ちます」
そう言うとハンスは立ち上がり、若い二人に言った。
「僕は決めました。彩香さんは、速弾き、井倉君はアレンジ。この一週間でどこまで出来るかチャレンジしてください」
「え?」
井倉も彩香も驚いて師の顔を見つめた。

「ハンス、そんな思いつきで……。二人共、困ってるじゃないか」
フリードリッヒの言葉を無視して、ハンスはうれしそうに席を立つと猫達をかまい始めた。
「あの、先生。アレンジって何の曲でもいいんですか?」
恐る恐る訊いた。
「何の曲でもいいかって? そんな訳ないですよ。今、練習している曲にアレンジ加えてください」
「えっ? そ、そんな無理ですよ。リストの曲をアレンジするなんて……絶対に無理……」
すると、ハンスは笑って鍵を持って来て言った。
「じゃあ、地下のオーディオルームに籠もりましょう。1週間、ピアノとだけ遊んでたらきっと出来るですよ。僕も幽閉されていた時、一週間くらいで素敵な幻想見ること出来ましたから……」
「先生……」
師が体験したという幼い時の境遇に同情しながらも、井倉の心の中では、それを強制しようとする彼に対して、怒りと悲哀と服従の心が空回りしていた。